愛が重い

一生懸命ブログを書きます

ペットロスだけども

我が家は、ハリネズミを飼っていました。名前をマルといいます。

夫と交際中に迎え入れて、結婚や引っ越し、妊娠出産などの我が家の歴史を一緒に歩んできました。

マルはとても臆病で繊細な子でした。

迎え入れた当初、まだ少しは人に慣れていました。しかし、私の無知で冬眠させてしまいそうになり、それがきっかけで臆病さに拍車がかかってしまいました。

飼い主として情けなく、後悔でいっぱいになりました。

私の所にきた為にこんな目に遭わせてしまった…という罪悪感がつきまといました。

 

ハリネズミを飼っている人は多くありません。診察してくれる動物病院も少なく、マルが食べ物を吐いた、痒そうに体を掻いているといっては、バスを乗り継いで、ハリネズミを診察できる獣医のいる動物病院まで通いました。

毎日ゲージをキレイに掃除し、エサを与えて声をかけて、少しずつでも人に慣れてくれれば…と思っていました。

可愛くてしょうがなくて世話をするというより、罪悪感や責任感で世話をしていました。我が家に遊びにくる人達に対して、冗談で「マルは我が家の同居人だよ」と話していました。その位の距離感がありました。

 

それでも最近は、エサの時間になると小屋から出て来て、私の手の匂いを嗅いだり、体を撫でさせてくれるようになっていました。小屋からちょこんと顔を出すその姿は、とても愛らしいものでした。当たり前にいつでも、そこに居てくれました。

 

その日も、同じようにご飯をあげようと、エサ皿を小屋の入り口に置きました。でも、顔を覗かせてもくれません。時々、眠っていて出て来ない日もあるので、あまり気にとめず、何気なく小屋の中を覗き、トゲトゲの背中をみていました。

寒気と、違和感が同時に押し寄せ、頭の中で言葉が浮かんでくることを猛烈に拒否し、思わず夫の名前を呼んでいました。「おかしい!」「動いてない!」

自分で確認する事はできませんでした。

マルは、小屋の中で背伸びをするように手を伸ばし、冷たくなっていました。

小屋の中には、吐いた後がありました。

苦しかったのだろうかと思った瞬間、腹の底から一気に悲しみが湧き上がってきました。「ごめんね」それ以外は考えられませんでした。小さな箱に移そうと体を持ち上げると、そのずっしりとした重みで、「生きていたこと」そして「死んでしまったこと」をはっきりと告げられた気がしました。

泣いても、泣いても、悲しみは深くなっていくだけでした。

 

次の日、家族で近くの火葬場へ行きました。私の住んでいる地域では、火葬場の入り口でペットの亡骸を係員に引き渡し、そこでお別れです。最後のお別れに、亡骸を入れた小さな箱を開き、顔を撫でました。何度も何度も触れてきた顔です。ごめんねと、ありがとうと、それしか伝えられませんでした。私は、もう二度とマルに触れる事が出来なくなってしまいました。

最後に、慰霊碑に手を合わせて家に戻りました。

 

家には、住人の居なくなったゲージがそのまま置いてあります。それを片付けていると、ポツリポツリと思い出が蘇ってきます。そのほとんどは、本当にたわいの無いものです。何気ない日常です。マルは、ちょっと出っ歯だった。その歯で手を噛まれた。お気に入りの場所はここだった。顔を撫でられているときの表情は気持ち良さそうだった。明日も、明後日も、居るものだと思っていました。それが、当たり前だと思っていました。マルのご飯のストックも、底に敷くワラのストックも、大量にあります。新しい小屋や、カラカラだってあります。なのになぜ、マルだけが居ないのか。

愛情はあるけれど、少し距離があると思っていました。冗談で、その存在を同居人のようだと話していました。お別れが、こんなに苦しいとは思ってもいませんでした。

 

なぜ死んでしまったのだろう。何がダメだったんだろう。何か見落としていたのではないか。そもそも迎え入れた時から、私は飼い主として、あの子を守ってやれなかった。自分を責めたくなるものですね。罪悪感や後悔は、きっとずっと残ってしまうと思います。生き物を飼うという事は、それだけ責任のあることなのだと思います。

でも、それだけだとあまりにもあの子が可哀想です。

楽しかった思い出も、たくさんあったのです。会えて嬉しかったよ。家の子になってくれてありがとう。

それから、私は本当に、あなたの事を愛していたんだよ。すごくすごく愛していたんだよ。気付けなくて恥ずかしいよ。どうかマル、安らかでいてね。

 

長くなってしまいましたが、ペットが居なくなり、ペットロスになる方、多いんですね。私もまだまだ、浮いたり沈んだりを繰り返す日々です。

当たり前が当たり前では無いこと、死んでしまったらもう二度と触れられないこと、頭では分かっていました。でも、理解はしていても感じることは難しいです。マルは、命は終わる事を、私に心で理解させてくれました。そして、それは心の準備も無しに突然起こる可能性が十分にあることもわからせてくれました。日々を生きていると、ついつい忘れてしまうのです。当たり前が奇跡だという事を、忘れてしまうのです。

まだまだ悲しみや後悔に襲われることも多いです。それでも私は、家族に対して「愛しているよ」とたくさんたくさん抱きしめて、重たい愛を伝える日々を過ごしています。